ご挨拶 創業百周年を迎えて

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当社は大正11(1922)年4月に 名古屋市中区堀江町(現・昭和区福江一丁目)で鋳造業を開始したことを起源とします。当時は徒弟制度のような工場だったそうですが、 およそ20人の作業員が、慣れぬ溶鉄を操ってポンプ部品などを作っていました。 数量が増えるにつれて販売先をさらに増やすべく、当時の国策とともに、朝鮮、満州への売り 込みを手掛けました。
昭和10年代に入ると 、軍需産業が盛んになり、大隈鉄工所の指導のもとに、工作機械製作を手掛けて、海軍の指定工場になった時期もあり、工場も名古屋市南区へ移転して、社員は 600人となるなど、忙しい毎日を送りました。 ところが昭和20年には戦争が激しくなり、工場の大半を焼失するなどの被害を受けて、結局、終戦とともに工場閉鎖、会社解散ということになりました。
終戦後は、復員した社員とともに小規模な鋳物工場を稼働させましたが、採算が合うところではなく、苦労・苦難の連続でした。 そのような中、朝鮮動乱の特需があり、多忙な時期を送ることもありましたが、その終結とともに不況へ突入という事態がありました。 しかし、世の中は戦後の復興の名のもとに、国策として産業に力点を置いたこともあり 、時代の流れに沿って、発展の道を始めました。次いで、鋳物製造とともに時代が必要としていた再生銑鉄、普通鋼鋼塊生産を始めましたが、それには中部電力、大同製鋼(現・大同特殊鋼)の多大な援助をいただきました。
昭和34年9月26日に東海地方を襲った猛烈な伊勢湾台風により工場は海面下に陥り、約3カ月間の操業停止という甚大な被害を受けましたが、それも政府系金融機関や多くの顧客、仕入先のご理解とご助力で無難に乗り切ることができました。
その後は高度経済成長期の波に乗って順調に推移しましたが、世は国際化の機運が高まり、当社も中部生産性本部、また中部産業連盟が主催した海外経済視察団にお供して、製品の販路を海外に求める勉強をさせていただきました。具体的には、東南アジア、南アメリカ、北欧までへも輸出をするようになりました。 しばらくして海外マーケットの需要が大きくなり、現地生産の機運が出て参ったので、ブラジル、タイでの生産をするようになりました。これらの工場の製品は、鉄鋼製品の仕上げに使用される金属研掃材(ショット、グリット)ですが、 この商品の世界的シェア争いに巻き込まれ、当社のこの製品分野の全てを世界のトップ企業へ売却することも致しました。
その後は、本業の鋳造品の製造と 金属表面処理機械の製作に特化して、中国・大連、またタイ・バンコク近郷に工場を作るなど、この業界においての地盤を固めております。現在、伊藤機工グループは、製造拠点が5カ所あり、社員数約400名が働いていますが、将来に向けて、素形材と言われる鋳物製品製造にさらに特化し、 全ての材質、全てのプロセスを駆使した製品を製造して、この分野においての地歩をより以上強化して、顧客のご要望にお応えしたいと 考えております。 われわれとしては、次のようなことを念頭において、日々、努力しております。

『ひとりひとりの個性を十分に生かし 、創造的で、若々しい行動をもって顧客に尽くすことにより、われわれの豊かな生活とわが社の発展を図る 』

このような毎日の活動によって社会への貢献ができるよう、努力を続ける所存です。 今後とも 、相も変らぬご支援・ご高配をたまわりますよう、よろしくお願い申し上げます

2022年6月吉日

伊藤機工株式会社
取締役会長 伊藤千衛